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言葉と在るものの声 前田英樹 空海の「声字実相義」 プルーストの「失われた時を求めて」を記号学のパースやソシュールを通してみるものである。言葉を「記号」としてみる、また世界を「記号」としてみることによって、その背景にある創造するイデア的本質世界へと導かれて行く・・・・ 詩や文学も空海の「声字実相義」につながるような潜在的なものを持ち、「イデア的本質」が無くてはなくてはならないというのである。これは、宗教や文学、芸術といったカテゴリーを越えた より創造される場所に近い所からの視点を持っていると言えるだろう。 創造される場所に近い観点にあるものとそうでないものとの区別を「潜在性の度合」とか「弛緩と収縮」という言葉によって、表現しているところが興味深い。例えば「声字実相義」については・・・・ 五大にみな響きあり 十界に言語を具す 六塵ことどとく文字なり 法身はこれ実相なり ―十界とは、「仏」「菩薩」「縁覚」「声聞」「天」「人」「阿修羅」「傍生」「餓鬼」「奈落迦」が順々に配される。仏、菩薩から、いろいろな神様、人、動物、化け物に到るまで、皆「言語を具す」ということになる。これらの段階が示しているものは、言わば在ることの<深さ>の順序であろう。 「仏」が現世に顕われて、行為し、自己を表現するのは、この世界の最も潜在的な次元からである。あるいは、この世界の最も大きな弛緩から為される最も大きな収縮の運動それ自体を「仏」と呼ぶ。これが、密教の発想であろう。「仏」の限りない思慮深さは弛緩と収縮の大きさによっている。餓鬼、畜生は仏と同じその世界の中で、ごくわずかな弛緩と ごくわずかな収縮を繰り返して生きている。このようなところでは、その場その場で為される反射運動に近い行為の連続がある。 「十界」とは、区分された十個の世界ではない。同じただひとつの世界にある潜在性の十の水準を指す言葉だと思われる。「十界」は、弛緩と収縮との間の連続する無数の度合いを通じて、実は繋がっている。 前田英樹は、「法身これ実相なり」について、「仏」の潜在性は「実相」として言わば宇宙の開かれた全体と完全に一致するところまで拡張されており、「人」と「仏」の違いは、潜在性の度合の差異であるというのである。 このように度合の深さによってはかる見方をプルーストの中にも見ることができる。 ジル・ドゥールズは『プルーストと記号』の中で『失われた時を求めて』の主人公が経験し、習得している記号を四つの段階で定義している。第一「社交界の記号」、第二「愛の記号」、第三「感覚の記号」であり、最後に学ばれるものは「芸術の記号」である。 芸術の記号について、ドゥールズは次のように言っている。 ―ところで、芸術の世界は諸記号の究極的世界である。これらの記号は、非物質化されているが故に、みずからの意味をイデア的本質のなかに見出す。その時から、芸術によって啓示された世界は、他のすべての記号、とりわけ感覚記号に働きかける。この世界は、それらを統合し、美的な意味によって、色づく、それらがまだ持っている不透明なもののなかに浸透していく。この時、私たちは、感覚記号が、かつてその物質的な意味の中に具現されていたイデア的本質にすべて向かっていたことを理解するのである。 しかし、芸術がなければ、私たちそのことを理解することができなかったであろう。・・・・・あらゆる記号は芸術へと収斂する。最も多様な道筋を通ってなされる一切の習慣は、すでに芸術そのものの無意識の習得である。最も深い水準において、本質は芸術の記号の中にある。 『プルーストと記号』より (次回に続きます・・・・) 今日の本:言葉と在るものの声 前田英樹 青土社 2007年4月 |
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イデア的本質の世界と芸術2 (密教と芸術)
言葉と在るものの声 前田英樹 ...続きを見る |
逍遥遊〜 日本文化にみられる真・善・美 2008/08/29 23:51 |
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